「愚痴を聞くのも友情のウチ」

先日、5月になったら、愚痴をきく飲み会を開く約束をした旨、書きました。
実は、「気持ちに寄り添う」って不得手なんですよね。(^_^;)
自身が共感・共有したいと思う感情(?)って、「何かを成し遂げた“達成感”」ぐらいしか、思い浮かびません。

それに気づいたのは、散打大会をお手伝いに行っていたおり、京都のI先生から共通の知人である「困った人」について、(私の千倍万倍(^_^;)あったであろう)苦労話を聞かされた時でした。
「困った人」については、「(被害が及ばない)適正な距離」と「類似品に対する予防のノウハウ」を確立した後は、なるべく思い出さない方が良いと考えていました。
ですから、ワザワザ昔の嫌なコトなんか、思い出さなくても良いのに、と考えたりしていました。
いまは、共通の話題で、「共感」し、親密感を実感したかったのだろうなと分かります。

けど、心理学の所見が増えるにつれ、女性に限らず多くの「愚痴」や「相談」が、「解答」や「知恵」を求めているのではなく、「共感」が主目的であることが、分かってきました。
わりと、最近、ソレを端的に表すツイートを見ました。(保存し損ねてしまったのが、残念)
だいたい、以下のような感じです。

妻:何も言わないで、ウンウンと聞いてほしいの。
夫:わかった。
妻:(日中の人間関係など)斯く斯く云々
夫:それは、ああして、こうすれば~~~
妻:(心のなかで)バ~~~カ、バカ。

と、いうわけでで、「大変でしたね」「困った人達ですね」と初期のAIでも可能な相づちに留め、「聞かれれば」今後の対応について、知恵を出すといたしませう。(つまり、「聞かれなければ」、あえて言わない(^_^;))

「百里を行く者は九十里を半ばとす」って諺、
『戦国策』に由来する言葉なのにね。(^_^;)